~持続可能な社会に向けて~
上智大学大学院理工学研究科応用化学専攻
有機工業化学第一研究室博士前期課程2年
山本奈緒子
【要約】
私は宮崎駿のコミック版「風の谷のナウシカ」に出会い、その中に「持続可能な社
会」として進化するために人間がどうあるべきかを見出すことができた。そしてこ
れをきっかけに、「科学」と「教育」の「持続可能性」との関連について考えるよう
になった。科学の視点においては、技術開発の持続可能な発展を「自然の復元力」
以内で行われなければならないこと、企業にとってもこのような開発が存続の条件
になってきていることを示唆した。また自然がこれまでに「共有と分配」によって
進化してきたように、人類も「共有と分配の義務と責任」を持って精神を進化させ
ねば地球を破滅の方向に導きかねないだろう。そして総合化学企業でのインターン
シップの経験を通して、科学者の有るべき姿も考えた。それは自分の専門領域のみ
にだけ漬かり、閉鎖的になるのではなく、社会の状況を把握し、専門外の人にも研
究を開放することで科学者としての精神の進化を図るべきである。一方、教育の視
点においては、若者らに地球環境問題に対するきちんとした情報・知識を発信し、
「持続可能な発展」が環境保全につながることを教えなければならない。また私は
いずれ教育を行なう立場、教師になり子供たちに「生命の大切さ」を教えたいと考
えている。それはそうすることにより、持続可能な社会の進化のために子供の頃か
ら精神の進化の方向づけを助けることが出来るからである。このように、持続可能
な社会の進化のためには人間・人類の精神の進化が鍵となる役割を担っていること
が分かる。これは、科学、教育のみならず人間にかかわるすべてのことに言えるこ
とである。しかし、今のような地球環境が崖っぷちに立たされている状況にあって、
人々は絶望感や虚無感を持ちかねない。だがここで進化への勇気を持たなければ、
持続可能な社会は実現されず、後続世代の未来への希望は絶たれるのだ。私はそれ
を「風の谷のナウシカ」によって学ぶ機会を得ることができた。そして同時に、こ
の論文を書くことにより自分の精神の進む方向を定めることができたと思う。
宮崎駿の「風の谷のナウシカ」をみなさんはご存じだろうか。確か私が小学生の頃に映画化された物である。その内容を大まかに言ってしまうと、一人の少女(ナウシカ)が身を犠牲にしながらも、争い(憎悪や復讐)からは何も生まれることは無く、友愛によって世界を救えるのだということを訴えている作
品である。これ以外にも宮崎駿の作品として「天空の城ラピュタ」、「となりの
トトロ」、「もののけ姫」、「千と千尋の神隠し」などが挙げられる。そしていず
れも子供から大人までの多くの人々を惹きつけている。何がそこまで惹きつけ
ているのかと考えたとき、それはやはり自然の描写が非常に豊かに表現されて
いること、そしてその自然の中で純粋無垢な主人公の子供達がのびのびと精一
杯生きているところにある種の憧れを抱くからではないだろうか。夢のような
世界、現実では有り得ないような世界ではあるが、訴えようとしていることは
常に現実の社会を見つめていると思う。私がその事を痛切に感じたのは、「風の
谷のナウシカ」のコミック本(全7巻)を読んでからである。このコミック本
は全くをもって映画の内容とは異なる。おそらく小学生の私が読んでも到底理
解できるものではないだろう。むしろ今読んでも100%理解できないほど難し
い内容になっているのだ。そこまで難を要するものにしている原因は何かと言
うと、それはきっと宮崎駿の哲学・倫理感が複雑に織り込まれているからであ
ろう。
さて、私がなぜこの論文を書くにあたり「風の谷のナウシカ」の話しを始め
にしたのかを理解していただくには、このコミック版「風の谷のナウシカ」の
内容を知っていただかなければならない。
・「風の谷のナウシカ」
ユーラシア大陸の西のはずれに発生した産業文明は数100年のうちに全世界に広がり巨大産業社会を形成するに至った。大地の富をうばいとり大気をけが
し生命体をも意のままに造り変える巨大産業文明は1000年後に絶頂期に達し、やがて急激な衰退をむかえることになった。そして「火の7日間」と呼ばれる
戦争によって都市群は有害物質をまき散らして崩壊し、複雑高度化した技術体
系は失われ地表のほとんどは不毛の地と化したのである。その後産業文明は再
建されることなく、永いたそがれの時代を人類は生きることになった。
巨大産業文明の群れが時の闇の彼方に去ってより1000年、セラミック時代終
末期、蟲たちのみが生きられる有毒の瘴気を発する巨大な菌類の「腐海の森」
にいま地表は静かに覆われようとしていた。ここで言う「腐海」とは滅亡した
過去の文明に汚染され不毛と化した大地に生まれた新しい生態系の世界をいう。この腐海の毒からわずかに守られた辺境の地に風の谷はある。そこの族長の一
人娘であるナウシカは他の人々が恐れる腐海の蟲たちを愛でたり、念話を使っ
て会話をしたり、また敵味方に関わらず人間の心にも安らぎや勇気を与え、お
のずと和(輪)を生むことのできる不思議な力を持った少女である。
やがてナウシカは二つの大国の憎悪と復讐に満ちた醜い戦争に巻き込まれながら、これまで誰も解明できなかった腐海の謎を解き明かしていく。それまで人々の間で腐海は戦争によってこの世を汚した人間たちへの罰として神が与えた業苦と伝えられてきていた。しかしナウシカは腐海の尽きるところに浄化された世界、聖地が存在することを知る。そこは腐海の森の樹木が人間によって汚された大地の毒を石化させ、1000年以上経ってやっと生命が誕生したところであった。そして同時に、人間はその浄化された世界では生きることが出来ないような、汚濁した世界に対応した身体に素から変わってしまったことにも気づいてしまう。
では腐海は一体何のために生まれてきたのか。火の7日間戦争の前後、世界の汚染が取り返しのつかぬ状態になった時、人間や他の生物をつくり変えた者達がいた。その者達は同じ方法で世界そのものを再生しようと企んだ。有害物質を結晶化させて安定させる方法。これが1000年前に突然攻撃的な生態系が出現した原因。つまり、腐海は人の手が造り出したものだった。たった数1000年で腐海は不毛の大地を回復させようとしている。そしてその役目が済んだら亡びるように定められている。目的のある生態系・・・その存在そのものが生命の本来にそぐわない。けれどナウシカは言う、「たとえどんなきっかけで生まれようと命は同じ生命はどんなに小さくとも外なる宇宙を内なる宇宙に持つ」と。そしてナウシカは腐海との共生を選んだのである。
途中でナウシカは汚れた生き物として生き続けていくことの「虚無」に襲われたが、最後には腐海を作り出した主、今ある世界を滅亡に追い込み清浄化された世界に作り替えようと企む者達と戦い、勝利を得る。がしかしこれは同時に、この先も清浄と汚濁の世界の中で人類が生きていくことを意味する。なぜ、ナウシカはこちらの世界を選択したのか・・・彼女は言う。「苦しみや悲劇や愚かさは清浄な世界でもなくなりはしない、それは人間の一部だから・・・だからこそ苦界にあっても喜びや輝きもまたあるのに」
この先、この物語の中での人類はどのような方向へ向かっていくのかは書かれていない。そしてこの作品はもちろんフィクションである。がしかし明白に、宮崎駿は今の人間社会の根底にある危機を人々に訴えているのだ。また、化学を研究している私にとって作品の中に登場してくる科学者の存在には非常に興味を持った。彼らはただがむしゃらに研究し、その成果に自己満足し、見返りを期待していた。その結果が及ぼす影響力も考慮せずに。
「人間社会は『持続可能な社会』として進化できるのか?」私は「風の谷のナウシカ」に出会い、このテーマについて人間として、科学者として、深く考えるべきであるという思いに至った。
ここで私が科学者として何を研究しているのか、簡単に説明したいと思う。私が所属しているのは上智大学大学院理工学研究科応用化学専攻の有機工業化学第一研究室である。いわゆる有機合成を行なっているのだが、その研究内容はスズを触媒として用い、医薬品や天然化合物の中間体として有用な生成物をいかに効率的に合成するか、である。毎年研究室に所属するため見学に来る学部4年生の中に「環境に役立つことをやりたいです。」と目を輝かせて言う人がいる。しかし実際扱っているものは環境ばかりか人体にも有害なものばかりであるため、一瞬言葉に詰まってしまう。だが、有機合成のプロセスやテクニックの基礎を学ぶことは、いつか必ず環境のための研究に役立つと私は考えている。このような状況の中でほぼ毎日実験を行なっている私にとって、『持続可能な社会』という言葉は全く聞き慣れないものであった。
・持続可能な社会
最近になってこの「持続可能な~」という言葉をテレビや紙面で多く目にするようになった。今年の8月に南アフリカのヨハネスブルグで開かれた環境開発サミットの影響であろう。今回のサミットの正式名称は「持続可能な開発に関する世界首脳会議」である。主テーマとなった『持続可能な開発』は、自然などの環境を消費し尽くさず、将来にわたって使えるような方法を開発(発展)の基本にしようと言うものであった。この概念は、世界の賢人を集めたブルントラント委員会がまとめた87年の「我ら共有の未来」で初めて提唱された。92年のブラジル、リオデジャネイロで採択された条約や宣言、もろもろの文書でも多用され、特に新しい考え方ではない。変わったのはそれを達成するための方である。10年前の地球サミットの主要課題は、人類が直面している地球環境問題という脅威に、国際社会がどう立ち向かうかだった。地球の温暖化や熱帯雨林の減少、砂漠の拡大、生物多様性の喪失などである。そして包括的な地球環境問題への行動計画を「アジェンダ21」という文書にまとめたが、あまりにも内容が広範囲であったため十分に実行されなかった。この間、経済だけにとどまらず、インターネットなどの爆発的な普及に伴い、あらゆる面のグローバル化が進展し、国際状況が激変した。そして世界の貧富の格差も拡大した。このため、環境問題だけに関心を持っていたのでは真の解決は得られない、との認識が広がった。そこで今回のサミットは、経済成長、社会開発、環境保全の密接不可分な3要素のバランスを取ることが、持続可能な世界を達成するための条件であるとの論議が進められた。この場合の社会開発とは、アフリカを中心とした貧困撲滅である。貧困をなくすためには、経済成長が必要であり、その成長を持続的にするためには環境保全が条件となる。
このように今や社会、経済、哲学、生活、農業、科学、教育など人間にかかわるすべてのことが環境問題となってきている。この中で特に私の興味の範囲にある「科学」と「教育」の「持続可能性」との関わりについて考えていきたいと思う。
・「科学」の視点から
約200年前の産業は、科学技術の進歩を背景として産業化社会への急激な変遷をもたらし、同時に人口、エネルギー消費、情報量、交通量などが飛躍
的に増加した。自然の資源は無尽蔵ではなく、有限であると伴に再生不可能な
資源であることに気づかず、私たち人間は科学技術の発展を駆動力としてモノ
の大量生産、大量消費を続けてきた。その結果、多くの生物種を絶滅に追い込み、人間自らの生を委ねている地球環境をも危機に招いてきた。こうして必然
的に、地球生態系に共生する持続可能な人間圏を創成する責任が出てきたので
ある。
持続可能性の概念は、もともと生物中心に考えられてきた。対象となる生物を、その再生能力を超えて収穫すれば、当然のことながら、やがてその資源は枯渇
してしまうであろう。そうして量的限界を超えない範囲内での収穫を許すとい
うのがこの概念の基本的な考えである。持続可能性の概念の基本的な特徴を一
般化すると、
「無限定な開発はこれを中止しなければならない」という点である。地球資源には、どれであれそれぞれに一定の限界がある。生物資源のように「再
生産可能資源」についてはその再生産能力の範囲内の収穫を、化石燃料のよう
に再生不能で絶対的な限界のある資源(「枯渇性資源」)については、代替資源
の開発や消費のコントロールや資源の効率的利用が考えられなければならない。しかし、この技術開発による持続可能な発展が、環境との関係において「自然
の復元力」以内で収まることが必要ではあるが、果たしてそれが可能であるか
どうかは疑問の余地がある。
いずれにしても、私たち人間は「持続可能な進化」のための「人類の義務と責任」を学ぶ必要がある。
カトリックの司祭であり、北京原人の発掘やジャワ原人の発見に協力した人類学者であるフランスのティーヤール・ド・シャルダンは、1955年に亡くなる
までに書き残した数々の著作の中で、宇宙の進化は、限りなく複雑さを増しな
がら人間の精神の進化に引き継がれ、人類社会は最後にはキリストによって体
現された「調和的複合共同体」へと収斂して行くと説いた。しかし1950年代
以降の世界の進化は、ティーヤールの想像を超えたものだった。最近の科学の
成果は、ティーヤールが直感的に想定した宇宙の進化・生命の進化の複雑さを
具体的な証拠によって裏づけつつある。一方、現実の地球の姿を見ると、おそ
らくティーヤールが当時想像すらしなかった人類の滅亡や地球崩壊を暗示する
恐ろしい事実が見え隠れしている。核爆発の可能性や環境汚染や自然破壊、こ
れらは全て、人間が適正な義務と責任を怠ってきたからではないだろうか。そ
れでは一体、人間の義務と責任とは何であるのか。それはこれまでの自然の進化を維持してきた『共有と分配』であろう。
このような歪んだ社会、歪んだ地球を今からでも救い、「東西・南北」の多様な異質の人々との「連帯と共生」の世界を実現し、より「平等で公正な共有と
分配のシステム」を平和的な手段で実現して行くためには、克己と工夫と組織
的努力と、並々ならない「痛み」に耐える覚悟が必要である。こうした人類の
精神を進化させる「共有と分配の義務と責任」の能力に、自然の進化は託され
ているのではないだろうか。そのために私たちが今から出来ることは、自己中
心にならず、社会や「他」にもっと関心を持ち、コミュニケーションを通して
情報を得ることで「共有と分配」を行なうことだと思う。
私は就職活動を行なった際に、一つの自分の理念を築いた。それは「『一期一会』は人生の宝である」だ。大学生活、研究生活、学部時代に行なった教育実習、そして院生1年目の夏に参加した総合化学企業へのインターンシップなど
の経験を通して、私は様々な人たちと出会い、コミュニケーションを交わし、
自分を精神的にも技術的にも成長させることが出来た。自ら積極的に行動し、「他」との交わりの場を持たなければ自分の世界を広げることは出来ないので
ある。この理念を持って私は、「人とのふれあい」を感じることの出来る、社会
に役立つ研究を行なえる企業に必ず就職しようと決めたのである。そして研究
者としても、実験室に閉じこもるのではなく、進んで外の世界と接し、社会が
何を必要としているのかを把握していきたいと思う。また同時に、「交わり」を
通して自分の研究内容を専門領域の外部の人にも理解してもらうべきだと思う。これはいわゆる企業の「透明性」の問題にも繋がるのだが、「説明の義務」の試
みは自分の研究が研究活動一般の中で妥当かどうか、という自己反省と、自己
評価の機会を与えるだろう。
このように考えるようになったきっかけとして、インターンシップでの経験は大きい。参加の理由は、大学の研究室では分かり得ない、自分の行なっている
有機合成の研究がいかにして社会に役立つのかを知りたかったからである。実際、有機合成の技術や知識を企業に活かせることを知り得たし、更なる技術の
向上及び社会的(企業的)責任を垣間見ることも出来た。しかし、働いている
研究者は労働時間や給料に対する不満も多く、研究面では常にコストコスト、
また特許取得のし烈な競争であった。環境に対する対策も会社側から義務づけ
られている以外のこと、自分の研究が環境に及ぼす影響などは深く考慮せず、
専門領域内で閉鎖的に実験を行なっているように私の目には写った。
企業に対しては、日本のも自然環境保護・保全を重視する循環型のハイクォリティーな社会の実現化を目指している欧米などの先進国をモデルに、法規
制を強化し、自然環境保全対策推進を迫っている。実際、人類の生存ばかりで
なく地球上すべての生物の生存にかかわりを持つ生態系あるいは自然環境の保
全に貢献するモノやサービスを生産し、販売し、回収することが企業存続の絶対条件にもなってきている。
しかし、その企業に属する研究者(科学者)も閉鎖的専門家集団の殻に閉じこまらずに、科学以外の分野の人々とも、地球環境全体に及ぶ関心と情報とを共有し分配し合うことで人類に対する「義務と責任」を果たすべきである。
さてこれまでに私的な主張を偉そうに述べているが、正直に言うと、私はこの論文を書き始める前に自分の研究(化学)が自然環境に及ぼす影響を考え、そしてこれまでにない「虚無感」に襲われた。確かに人間の快適な生活の営みのためには役立つ研究かもしれない。しかし、化学によって自然界に存在するものとは対称的なものを合成することで生命のネットワークを破壊に導いたり、あるいは核兵器のように人類を滅亡に導くような開発を行なうかもしれないと考えた時に胸が苦しくなり、悲しくなった。けれど今は、自分は化学者として正しいと思う道を歩んで行こうと思う。そしてその一つに教育者としての道がある。
・「教育」の視点から
私は一度企業に研究者として携わるが、必ず最後の職は教師であると心に決めている。その理由は教育実習での経験など様々であるが、テーマから少しずれてしまうので今回は割愛させていただく。しかしその中の1つとして強調しておきたいのは、教育を通して子供たちに生命の大切さを教えたいという思いがある。歪んだ社会、歪んだ地球を救うためにも、子供の頃から「他」への思いやり、生命への敬いの気持ちを築いておくべきである。つまりは持続可能な社会を進化させるためには、子供の精神の進化の方向性を定めなければならないと思うのだ。
最近では環境の時代にあってか、日本の大学で環境関連の学部を設置しているのは107大学に上るという。また環境を取り上げる授業も増加している。これは非常に良い傾向であると思う。私も学部生の時に本大学の文学部の専任講師でおられる瀬本正之先生の「環境倫理学」の授業を受けたことがある。私はそこで初めて「環境」についてきちんと学ぶ機会を得たと思う。瀬本先生はそこで「私は自販機の飲み物を買わない」と断言しておられた。人間は快適さを求める欲のために無駄にエネルギーを消費しているものが山ほどあるのだと、改めて知らされたことを覚えている。またこの論文を書くにあたり、授業で使用した本を多岐にわたり参考にさせていただいた。
今日の私たちが得ている豊かさが維持できなくなると、確実に割を食うのは後続世代である。若者ら(20歳前後)に地球環境問題の重要さを気づかせ、対応行動を取らせなければならないが、彼/彼女らは幼少時から今日に至るまで環境教育をほとんど受けていない(実際私も該当する)ので、環境問題の知識・情報に乏しくまた、今日のあらゆるメディアの発信する情報も、書籍やインターネットの一部やテレビ番組などを除いて、きちんとした環境情報が発信されていない。私はこのような論文を書く機会を得られて幸運である。いずれにしても、「持続可能な発展」こそ環境保全のために最低限クリアしなければならないことと教える必要がある。
以上のように、「科学」と「教育」の視点から「持続可能な社会」の進化について述べてきたが、どちらの場合も人間の、人類の精神の進化が重要な鍵となる役割を担っていることが分かる。
・進化への勇気
持続可能な社会の進化が人間・人類の精神の進化に託されているのならば、人間・人類の精神は進化し得るのだろうか?答えはYESと、私は言いたい。いや、YESとしなければならないだろう。なぜならNOと答えることは、人間をネガティブにしてしまい、虚無感や絶望感を与えかねないからだ。社会の中に絶望が広がれば、ナショナリズム、ポピュリズム、テロリズムなどに引きつけられる人は増え続けるだろう。私も一時的ではあるが自分の研究に対して虚無を感じた。しかしここで研究を投げ出したとしても、進化にはつながらないのである。人間は進化を可能にする努力をしなければならない、勇気を持たなければならない。そのために、前述したように「共有と分配の義務と責任」を果たさなければならないと私は考える。そして、地球の生命体の一つとして人間は、自然との共有・共生を行なうのもまたしかり。
さてここで再び「風の谷のナウシカ」に話しを戻そう。ナウシカは絶望と虚無の広がりつつあった社会に、風のごとく力強く、そして優しく、苦の中で生きることの喜びや勇気を吹き込んだのだ。人間は大地を汚す愚かな生き物かもしれない、しかし、腐海のような生命とも共生することによって、進化することの可能性を引き出せるのである。
これが、人間・人類の精神の進化であり、人間社会が「持続可能な社会」として進化する術であろう。人間はこの進化に勇気を持って挑まなければならない。
最後に、是非機会があったらコミック版「風の谷のナウシカ」を読んでいただきたいと思う。そして、この論文を書くことで私自身の精神の方向性を定めることができたことに対し、機会を与えてくださった方々に深い感謝を示す。【参考文献】
宮崎駿『風の谷のナウシカ』徳間書店、1997
テイヤール・ド・シャルダン『現象としての人間』みすず書房、1985中村友太郎・関根靖光・小林紀由・瀬本正之編著『環境倫理-「いのち」と「まじわり」を求めて-』北樹出版、1996下载本文