科目:中国文化
発表者:韋燕
日付:2009-12-10
ご周知のように、中国は詩歌の国である。唐代は、中国の古典詩が空前の発展を遂げた時代であり、文学史上、「詩の時代」と言われる。唐詩は中国叙情文学の最高峰であると言えよう。清代に編まれた『全唐詩』には、2300余名の詩人たちの5万首近い詩歌が収められている。唐代は多くの名作が生まれ、詩体も充実していた。様々な流派、風格が競い合う百花繚乱の黄金時代であった。
一、初唐の詩について
(一)近体詩形の発展
新しい王朝の基礎が固まるにつれ、その勃興する気運を映して清新な詩歌が現れてきたのは、高宗と、そして主としてそくてんぶこう則天武后の治世年間であった。詩の内容的な変貌とともに、この時期は近体詩形式の成長が完了して、中国古典詩の大きな転換期となったが、さらには高宗の永隆二年(681)に、進士科の試験科目にはじめて詩賦が取り入れられたという、重要な事柄を含む。
高宗から則天武后の時代にかけてまず華々しい活躍を示したのは、「文章の四友」と呼ばれるりきょう李嶠・そみどう蘇味道・さいゆう崔融・としんげん杜審言であった。彼らはいずれも宮廷詩人として名を馳せ、ともに五言律詩体の詩をよくした。四友の流れを継いだのは、彼らよりやや遅れて武后の宮廷に登場したしんせんき沈佺期とそうしもん宋之問である。この二人は、当時すでに大きな成長を遂げていた律詩の韻律を集大成し、形式的に完全に整った五言・七言の律詩を作って、後世、律詩の祖と言われた。彼らはまた絶句体の詩も作っており、近体詩の諸形式が完成する上で彼らの果たした役割は、まことに大きなものと言わなければならない。四友及び沈・宋の詩風は、依然として宮体詩の色合いを濃く残してはいたものの、彼らの作品の中に、いかにも唐人らしい自然の情感の流露した清新な作品がないわけではない。しかし、その数は他の作品に比べて決して多くなく、功績はあくまでも近体詩形の確立にあった。
しかし、初唐期において宮体詩の殻を破り、新しい詩的世界の突破口を切り開いたのは、おうぼつ王勃・ようけい楊炯・ろしょうりん盧照鄰・らくひんのう駱賓王らのいわゆる「初唐四傑」である。四傑の詩は、それぞれ実生活の経験に根ざした真実の心情を写し、斉梁体の軽佻浮薄の風を払拭することに努力した点で、高く評価される。とりわけ、王勃は宮廷を中心とする当時の詩界をおおっていた艶冶の風を排撃して気骨のある詩を主張し、四傑を代表する詩人であった。また、壮麗な言辞を連ねた『長安古意』の盧照鄰、『ていきょうへん帝京篇』の駱賓王が、七言の発展に寄与した点も無視してはならない。この七言詩発展の線上に並ぶのがちょうじゃくきょ張若虚とりゅうきい劉希夷の二人で、両者の代表作である『春江花月夜』と『代白頭吟』は、作中に横溢する生き生きとしたリリシズムのゆえに、もとは宮体詩から出て宮体詩の古い殻を打破したものと言われる。
(二)詩の革新
武后朝に出現したちんすごう陳子昂こそ詩の革新の口火を切り、新しい詩の世界を導き出した詩人である。陳子昂は「漢魏の風骨」が晋・宋以来滅び、斉・梁の詩はただ表現の艶麗さを競うだけになって詩人の本心が写されなくなったとの認識を基礎として、詩の形式主義を排し、思想内容を有していた漢魏詩の精神に立ち返らなければならないという積極的な復古の出張をした。陳子昂の『感遇』には、斉梁体の詩に漂う脂粉の香が完全に脱ぐい去られ、風格のある力強さがはっきりと認められる。この点こそ、同じような出張をしながらもいまだ斉・梁の詩風から完全には離脱し得なかった四傑などと比べ、彼が明確に区別される重要な点である。陳子昂が詩の革新に果たした功績は同じ唐代の詩人たちにも高く評価され、以後の人々に少なくない影響を与えた。
(三)初唐四傑と陳子昂の詩について
唐代詩歌の時代は、初唐の四傑がその幕を開けた。彼ら四人の新しく進取の気勢に溢れた作風はそのころ一代を築いた。若くて位は低い才能と志に溢れた青年詩人たちは、斉・梁の華麗な装飾的詩体から抜け出し、題材や形式の粋を広げて新しい風を吹き込み、力に満ちた壮大な美しさをつい求めた。王勃の名作『送杜少府之任蜀州』を見ると、「同是宦遊人」の別れにあって複雑な心境を描いているが、「海内存知己、天涯若比鄰」と、明るく伸びやかな句で湿った別離の情を振り払い、何物にも縛られない青年の大志を表現している。
四傑に続いた陳子昂も思想を追い求めた詩人であった。その作品『登幽州台歌』は千古不変の名作である。「前不見古人、後不見来者、念天地之悠悠、獨愴然而涕下」は数句の言葉で孤独を表現している。しかし、この孤独は決して天や人を怨むことなく、広大な宇宙に溶け込む自由と強さを感じさせる崇高な美である。
二、盛唐の詩について
盛唐期には、多くの優れた詩人が輩出し、多種多様な詩が作られた。この時期でまず注目すべきなのは初唐期で完成された近体詩の諸形式がようやく一般に定着し、内容的な発展を遂げたことである。同時に、従来の伝統的な形式も以前として愛好され、中国古典詩の近古体、五七言などすべての形式がこの時期にほぼ出そろった。この時期には、おうしょうれい王昌齢・こうせき高適・しんじん岑参を代表とする辺塞詩派と、おうい王維・もうこうねん孟浩然を代表とする山水田園詩派の2派が出てきた。しかも、詩仙と詩聖の李白・杜甫も出てきた。以下において、盛唐期の辺塞詩派、山水田園詩派と李白・杜甫について述べたいと思う。
(一)辺塞詩派
盛唐の辺塞詩は、以下の諸点にその特徴を持っていた。一つは、才能ある知識人が辺境の節度使や遠征軍の幕下に加わり、直接辺境生活を経験し、優れた才筆で自分の見聞や経験を詠じたことである。二つは、作品の多くが流麗で伸びやかな音調をもち、生き生きとした精神の高揚が見られることである。三つは、清澄な抒情性に支えられた新鮮な感動があることである。
王昌齢は、辺境の将士の英雄的な気概や、その切々たる郷愁などを詠じた『従軍行』『出塞』などの諸作で名高い。『従軍行』「青海長雲暗雪山、孤城遥望玉門関、黄沙百戦穿金甲、不破楼蘭終不還」は、豪快にして勇敢、勇猛果敢に前進する英雄の気概が漲っている。彼は辺塞詩に優れた力量を示したばかりでなく、宮廷の女性の哀怨の情を歌ういわゆる「けいえんし閨怨詩」の名手としてもよく知られ、『閨怨』『長信宮詞』などの作がある。これらの閨怨詩は、明るい音調とみずみずしい情感をもち、いかにも唐詩らしい健康さのゆえに、かつての頽廃的な宮体詩とはまったく趣を異にする。王昌齢の代表的な作品はほぼすべて七言絶句で書かれており、この詩形に独自の境地を開いた彼は、李白に肩を並べる七絶の名手と言われている。
高適と岑参は、緊張感を漲らせ、激しい調子で辺塞の事物や情感を歌ったのである。高適は若い時に放浪して中国北部をへ歴めぐり、また河西節度使の掌として実際に軍隊生活を経験した。それらの経験に基づく『燕歌行』『塞下曲』などの作品がある。一方、岑参は、安西・北庭などの節度使の属僚となり、比較的長期にわたって現在の甘粛省や省一帯で生活した。その豊かな経験をもとに、エキゾティックを辺境の情景を詠ずる詩に独特の新境地を開拓し、辺塞詩人の第一人といわれる。
(二)山水田園詩派
雄壮で激烈な調子をもつ辺塞詩とは対照的に、山水自然の美しい風景と自然の中での静謐な心情とを描写した山水田園詩人の一派が存在する。中国の山水田園詩は盛唐の時代に完成されたと言える。山水田園詩派の作風は、俗世を離れた自然の情趣を歌い上げるものであった。
王維は単に詩人として名が高かったばかりでなく、南画の祖と言われるように画家としても広く知られた。その詩画渾然一致の境地は、「詩中に画有り、画中に詩有り」と評されているように、幽邃な趣をもつ。王維の作品は常に穏やかで優美な叙情詩で、一首ごとにまるで一幅の秀麗な山水画を見ているような気分にさせる。「人閑桂花落、夜静春山空、月出驚山鳥、時鳴春澗中」(『鳥鳴澗』)、この詩は優麗で余韻があり、奥深い趣がある。
孟浩然の作品の大部分が五言の律詩と絶句で山水田園の情景を描写したものである。彼の詩風は一般に恬淡と評されるように、俗事を離れた平穏な境地が示されている。王維の詩があくまで穏やかであるのに比べて、孟浩然の詩は明るく律動的である。孟浩然の「春眠不覚暁、処処聞啼鳥、夜来風雨声、花落知多少」などは、さわやかな早朝に澄み切った水のような作者の心境を描いている。
(三)「詩仙」と「詩聖」
李白と杜甫は、ともに中国詩歌史の最高峰に並び立つ偉人である。彼らはまるで夜空の双子座のように永遠不滅の光を放ち続けている。李白は、非凡な才能を持ったロマン主義の大家として「詩仙」と呼ばれ尊ばれ続けている。杜甫の独特の写実的な描き方と余韻の残し方は完璧なまでに高められた。それゆえ、杜甫は「詩聖」と呼ばれる。
李白の詩は、現在まで千余首が伝えられており、形式・題材とも多岐にわたる。彼の大きな功績の一つは、七言絶句などの短詩形式に卓抜な表現力を示し、唐代に入って急速に愛好者の増えたの絶句形式の実質的な完成者であったことである。しかしながら、彼の特色が最もよく発揮されたのは、古体の楽府形式の作品であった。比較的束縛の少ないこの形式は、李白の奇想天外な自由な発想を盛るのに最も適していて、自在なリズムの採用と相まって彼独自の世界を創りあげた。たとえば、「蜀道難」一首を見れば理解できることであり、そこに展開される空想力豊かな壮大なロマンは、必ずや読者を驚嘆させずにはおかない。李白は、漢・魏以来の楽府の伝統に新しい生命を吹き込んだのである。さらにまた、李白の場合、「白髪三千丈」(「秋浦歌」)などの表現で知られるように、古体今体を問わず、詩的誇張を重要な特徴の一つに数えることができるが、それらは単なる誇張に堕することなく、事物の本質を生き生きと読者の眼前に彷彿させる力をもっていた。
李白の詩を、感情を溢れ出るままに大胆かつ壮麗に書き留めた天才の技というならば、杜甫は年代も少々遅く、その作風はまた違った趣を持つ。現存する杜甫の詩は千四百余首のほぼ十分の九は、安禄山の乱以後の作である。安禄山と史思明の反乱は、中国の社会を動乱の中に巻き込み、社会と文化の各方面に様々の影響を及ぼした。人々は生きるために奔走を余儀なくされ、杜甫もまたその例外ではなかった。杜甫は深刻な生活の中で、不条理に満ちた社会を醒めた眼で見つめる。『北征』・三吏三別など、時事を描写する一連の社会詩は、さながら当時の歴史を映すものとして、「詩史」と言われている。中国詩のリアリズムは、杜甫にいたって高い芸術性に到達したのである。三吏三別は杜甫が創作した新しい楽府体の詩で「新体楽府」と呼ばれる。これらの古体詩に力量を示す一方、より重要なことには、杜甫は近体の律詩の実質的な完成者であった。彼の律詩は、整った韻律、対句の際立った対照美、語句の意味の重層的な複雑さ、そしてそれゆえに生ずる一首全体の深い奥行きなど、形式内容とも律詩の可能性を極限まで追求した精緻な作品であった。次の詩は杜甫の名作『登岳陽楼』である。「昔日洞庭水、今上岳陽楼」、洞庭湖の広大な眺めに、杜甫は卒然として様々な思いに捕われた。「親朋無一字、老病有孤舟」という孤独に老い、病を得てなお漂泊する杜甫の悲しみ、離れ離れになった家族や友への思念、また国難と民の苦しみに対する憂慮、それらが心中に一挙に湧き上がり、激しく心を揺さぶる。しかし、口にするのはたった一言「戎馬関山北、憑軒涕泗流」、それがかえって計り知れない悲しみの深さを映し出している。
三、中唐の詩について
中唐以降、社会は更に乱れていった。はくきょい白居易は、そのころ杜甫に続いて出てきた大詩人で、多くの優秀な作品を残した。彼は「文章は時に応じて著され、詩歌は事に応じて作られる」という自身の創作理論に則り、現実社会を直視した作品を創作したが、また芸術的にも大変優れたものであった。『長恨歌』と『琵琶行』は白居易の作品で最も有名な2篇である。前者はロマン主義の手法を採り、想像力豊かに美しい言葉の調和によって、玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋の物語を細やかに描き出し、長く人々に愛され続けてきた。一方後者は、琵琶を弾き語る女の不幸な身の上を写実的な筆致で描き、封建社会における女性の悲惨な運命と、汚名を着せられ左遷される自分の失意と怒りを表現している。全編を通して物語が繊細に描かれ、言葉使いも滑らかで、芸術性の高い作品である。
四、晩唐の詩について
晩唐詩の代表者は晩唐の李杜と呼ばれるとぼく杜牧とりしょういん李商隠である。
風流才子の名を馳せた杜牧は、元来、剛直な性格と高邁な政治信念の持ち主であった。中・晩唐にかけてますます混迷の度合いを深める現実社会を目の前に、彼は度々切歯扼腕の憤りと自己の才能が認められない落胆とを、詩文に書き綴った。江南に放浪の生活をおくり、風流才子の評判を得たのは、彼の失意の時期である。江南の明るい自然と享楽的な都市生活は、彼の詩に艶やかな色彩を加え、華麗な詩風が杜牧の詩の特色となった。七言の絶句や律詩に長じた彼の作品は、清らかな音調と艶冶な内容を持つものが多い。この傾向は、よく知られている『江南春』『泊秦淮』などの諸作にも、十分読みとれるのである。
李商隠は当時ぎゅうそうじゅ牛層孺一派と李徳裕一派の間に繰り広げられた執拗な政争の犠牲となり、一生不遇のまま両派の間を転々として終えた。複雑な環境の中であからさまに言えない憂憤や恋愛の感情を、多くの艶麗な七言律詩に託して吐露した。曲折や仮託の多い彼の詩は、当時からすでに難解との定評があるが、その詩を難しくしている要素の一つに、通常詩家の用いぬ稗史小説類にいわゆる僻典の多用がある。音調の整った象徴的詩句の甘美なイメージは、晦渋といわれながらも、数多くの愛好者と模倣者を生み、宋初には李商隠の詩風をまねたせいこんたい西崑体の詩が流行した。一連の無題詩、きんしつ錦瑟などが、特に名高い。しかし、彼が単に恋愛感情のみを詠じた詩人でないことは、その集中に、時事を詠じ、時政痛烈に諷刺した諸作が少なくないことで、理解できる。
以上は初唐から晩唐まで、唐代詩の発展と詩人たちについて述べたが、これからも中国の詩歌について注目したいと思う。
参考文献
[1]前野直彬(2000)『中国文学史』東京大学出版会
[2]孫維新(2005)『経典中国』上海訳文出版社
[3]王昕(2000)『中国古代文学名作選読』中国人民大学出版社下载本文